七寺縁起
開創から1280年
幾多の災難を乗り越えて
稲園山七寺の由来と沿革
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享年7歳
亡児への愛慕の念につつまれる七堂伽藍
本来の正式名は稲園山正覚院長福寺といい、
奈良時代の天平7年(735)
行基菩薩により尾張国中島郡萱津に
正覚院が開創されたのに始まる
真言宗智山派の名刹。
七寺という呼称は、
延暦6年(787)紀是広(きのこれひろ)によって
七堂伽藍が建立されたところから来たもので
これにまつわる逸話が伝えられている。
「河内権守紀是広が天応元年(781)、
秋田城主に任ぜられて出羽国に赴き7年の任期を修了して
帰国の途中、中島郡萱津の里まで来たところ、
郷里に残した愛児光磨が
父の後を慕って萱津まで来て病死したのに出会い、
悲嘆のあまり正覚院に詣で
住職智光上人に亡児の蘇生を祈願した。
上人はこれを聞き憐れんで、
寺の東北林中に壇を築いて地を清め、
薬師如来を壇上に安置して却死反魂を焚き
医王の秘法を修したところ、
香煙が児の面を覆った途端に息を吹き返し、
父子の名乗りを交わし
互いに愛慕の情を交わしあった後、
息絶えてしまった。
是広はこの地に亡児を葬り、
延暦6年12月に7歳で死んだ我が子の追善のため
7区の仏閣と12の僧坊を建立。
それ以来七堂伽藍にちなみ
「七寺」と呼ばれるようになった。」
という。
幾多の災難と変遷を重ね
徳川藩の祈願所に
是広によって建立された七堂伽藍は
仁和3年(887)の水難や
天慶4年(941)の兵火により荒廃した。
しかし仁安2年(1167)に勝幡城主であった
尾張権守大中臣朝臣安長(おおなかとみあそんやすなが)が
亡女の菩提のために、
その婿豊後守親実(ちかざね)と図って
寺域を現在の稲沢市七ツ寺町に移し、
七堂伽藍と12僧坊を再建。
安元元年(1175)正月から治承2年(1178)8月に至る4年間に
広く豪筆の士を選んで
一切経を書写させる一方、
丈六の阿弥陀如来とその脇侍、観音・勢至の2躯を奉納。
名を稲園山長福寺と改め、
七寺と呼称させるようにしたと伝えられている。
その後、建武の兵乱により
安長が建立した寺塔の大半を焼失したが、
天正19年(1591)、
清州の豪族であった鬼頭孫左衛門吉久が
太閤秀吉の命を受けて
寺域を清州に移し本堂を再建。
大塚村性海寺の住職良圓を迎えて中興開山した。
慶長16年(1611)の秋、
徳川家康の命により
寺域を現在の地に移転されるに当たって、
本堂が清州から移築されたのをはじめ、
諸堂が次々と再建された。
元禄13年(1700)には
領主徳川光友の計らいにより三重塔が再建。
これにより七堂伽藍のすべてが整い、
大須観音、西別院とともに
輪奐の美を誇るに至った。
享保15年(1730)には尾張藩主の祈願所となっている。
明治12年(1879)7月に総本山智積院末になり、
明治44年(1925)には準別格本山へと昇格した。
不幸にも昭和20年3月19日
太平洋戦争の戦火によって
七堂伽藍のすべてを焼失するという悲運に会い
わずかに経蔵一棟を残すのみとなった
この時にかろうじて戦火を免れた観音・勢至の二菩薩および
勢至菩薩の光背と唐櫃入り一切経は
その後昭和25年に改めて
国より重要文化財の指定を受け
現在に至っている